LOGIN窓のない地下室から二階の寝室へと移されて、数日が過ぎた。
ここはかつて、私が鍵がかかっているのを確認した部屋だ。蒼くんの「コレクション」である私を保管するためにあつらえられた、真っ白な箱。 家具は最低限のベッドとテーブルだけ。窓には鉄格子が嵌められ、外の景色は森の木々が四角く切り取られたように見えるだけだ。ドアは外から施錠され、食事の時と、蒼くんが「鑑賞」に来る時以外は開かない。「……うっ……」 朝。 目覚めた瞬間、胃の底から熱いものがせり上がってくる感覚に襲われた。 内臓が裏返るような不快感。私は慌ててベッドから転がり落ち、部屋の隅にある洗面台へと這っていった。「げぇっ……はぁ、はぁ……」 胃の中は空っぽだ。 昨日の夜、蒼くんが無理やり口に押し込んだスープも、すべて戻してしまっていたから。出てくるのは苦い胃液だけ。喉が焼けつくように痛い。生理的な涙で視界が歪ん「ち、違う! 僕は……僕は君を愛しているから……!」「愛? それが愛?」 私は鼻で笑った。征也の、あの自嘲気味な笑みを真似て。「あなたが愛しているのは、自分自身だけよ。……自分の思い通りになる、綺麗な人形が欲しいだけ。……そんなの、愛じゃない。ただの自己満足よ」「き、貴様……!」 蒼が逆上し、手を振り上げた。 でも、その拳は空中で止まった。 殴れば、私が傷つく。彼が執着する「綺麗な莉子ちゃん」に傷がつく。その矛盾が、彼の動きを封じていた。 私の読み通りだ。彼は、自分のコレクションを自ら損なうことはできない。「ほら、できない」 私は冷たく言い放った。「あなたは一生、征也には勝てない。……征也は、私を傷つけることさえ厭わなかった。それだけの覚悟を持って、私を愛したのよ」「あいつの名前を出すな!!」 蒼が絶叫し、近くにあった椅子を蹴り飛ばした。椅子が壁に激突し、大きな音を立てて壊れる。 彼は肩で息をしながら、私を睨みつけた。その目は、もはや理性を失った獣のようだった。でも、その奥には、決定的な敗北感と、怯えが見え隠れしていた。「……後悔させてやる」 彼はギリギリと歯ぎしりをしながら、呻くように言った。 「そんなに痛みが欲しいなら、望み通りにしてやる。……もう手加減はしない。手術道具を持ってくる。……麻酔なしで、君の中身を抉り出してやる!」 彼は踵を返し、部屋を飛び出していった。 バン、とドアが閉まる音が、悲鳴のように響く。 部屋に残された私は、ふらりとその場に座り込んだ。 心臓が、痛いくらいに脈打っている。手のひらは汗でびっしょりと濡れていた。 怖かった。本当は、足が震えて立っていられないほど怖かった。 でも、勝った。彼の精神的な急所を突き、時間を稼ぐことができた。「……征也」 お腹に手を当てる。この子はまだ、ここにいる。私が守ったんだ。征也から貰った勇気で、彼の虚勢を借りて。「……見ててくれた?」 窓の外を見る。嵐はまだ続いている。でも、空の向こうから、微かな光が差し込み始め
「いい加減にしてくれ。……僕の忍耐にも限界がある」 彼は私の腕を掴み、強引に引き寄せた。冷たい指が肉に食い込む。反対の手で私の顎を強く押さえつけ、無理やり口を開かせようとする。「んぐっ……! やめ……っ!」「飲み込め! 昔みたいな、僕の莉子ちゃんに戻るんだ!」 小瓶が唇に押し当てられる。冷たいガラスの感触。液体がこぼれ、頬を伝う。 その時、ふと脳裏に浮かんだのは、征也の顔だった。『お前は俺のものだ』 あの傲慢で、強引で、でも誰よりも私を求めてくれた男の顔。 彼はいつだって、正面から私にぶつかってきた。傷つけ、傷つきながら、それでも私という人間を見ていた。 それに比べて、目の前のこの男はどうだ。 薬を使って眠らせ、こっそりと排除しようとする。自分の手を汚さず、綺麗なままでいようとする。 なんて卑怯で、なんて小さな男なんだろう。 恐怖が、ふっと消えた。 代わりに湧き上がってきたのは、氷のように冷たく、そして鋭い怒りだった。 私は蒼の手首を掴み、渾身の力で押し返した。不意をつかれた彼は、バランスを崩してよろめく。「……っ!」 小瓶が手から滑り落ち、床で割れた。中の液体が飛散し、カーペットに染み込んでいく。「あ……」 蒼は呆然と床を見つめ、それからゆっくりと顔を上げた。その目は、怒りで血走っていた。「……何をしたか、分かっているのかい?」 低い声。彼は拳を握りしめ、震えていた。「せっかく、苦しまないようにしてあげたのに。……そんなに痛い目を見たいのか?」 彼は私に掴みかかろうとした。 でも、私は逃げなかった。ベッドの上に立ち上がり、彼を見下ろした。 その瞬間、私の中に何かが降りてきた気がした。それは、かつて私を支配し、そして愛してくれた男の魂だ。私は背筋を伸ばし、顎を上げて、冷ややかに彼を見据
嵐の気配が遠ざかり、部屋には重く澱んだ静寂だけが残った。 窓の外はまだ薄暗い。夜明けにはまだ間があるはずだ。私はベッドの隅で膝を抱え、自分のお腹をかばうように身体を丸める。 ここには、小さな命がある。 征也との間に生まれた、たったひとつの希望。でもその灯火は今、風前の灯火のように頼りなく揺らいでいた。 ガチャリ。 無機質な金属音がして、ドアが開く。 入ってきたのは神宮寺蒼だった。手には銀のトレイを持っている。その上には水の入ったグラスと、小さなガラスの小瓶が置かれていた。「……莉子ちゃん」 彼は甘く、優しい声で私の名前を呼ぶ。 まるで、愛しい恋人に語りかけるように。 でも、その目は笑っていない。眼鏡の奥にあるのは、冷え切った執着と、目的を遂行しようとする機械的な意思だけだ。「明日の手術まで待とうと思ったんだけどね……やっぱり、早いほうがいい」 彼はトレイをサイドテーブルに置き、小瓶を手に取る。中には透明な液体が入っていた。「手術は体に負担がかかるからね。……薬の方が、君のためにもなると思って」「……なに、それ」 震える声で尋ねる。答えなんて分かっているのに。「綺麗になるための薬だよ」 蒼はにっこりと微笑んだ。「これを飲めば、君の中の『汚れ』は流れて消える。……痛みもほとんどないはずだ。眠っている間に、全部終わるよ」 堕胎薬。 彼は本気だ。私のお腹の子を、ただの汚物として処理しようとしている。「……嫌」 私はベッドから後ずさり、壁に背中を押し付けた。「絶対に嫌。……飲まない」「駄々をこねないでくれ。君のためなんだ」 蒼が一歩近づく。その手には、まだ封を切られていない小瓶が握られている。「君だって、あんな男の子供なんて産みたくないだろう? 父親を殺した男の種だよ?
「……え?」「この別荘の周りには、僕の私兵を配置してある。……武装したプロたちだ。もし天道がのこのこ現れたら、蜂の巣にしてやるよ」 蒼は狂ったように笑った。「君の目の前で、愛する男が肉塊に変わるのを見れば……君も少しは大人しくなるかな?」「やめて……! お願い、彼には手を出さないで!」「遅いよ。……もう賽は投げられたんだ」 蒼は窓の方を指差した。「聞こえるだろう? ……雨の音が」 激しい雨音。風の唸り。 窓の外では、嵐が世界を飲み込もうとしていた。「この嵐の中、彼は必死に君を探しているはずだ。……哀れな獣だね。罠があるとも知らずに」 蒼は部屋を出て行こうとした。私は床を這って追いかけ、彼のガウンの裾にしがみついた。「お願い! やめて! 私が悪かったから……言うことを聞くから! だから征也くんだけは……!」「……もう手遅れだよ」 蒼は冷たく私を見下ろし、足を振り払った。「明日の朝、手術が終わったら……君に新しい首輪をつけてあげる。……僕だけの、永遠の首輪をね」 バタン。 ドアが閉められ、鍵がかかる音が響く。私は床に突っ伏して、声を上げて泣いた。「うあぁぁぁぁ……ッ!!」 ごめんなさい。ごめんなさい、征也。ごめんなさい、私の赤ちゃん。 私のせいで。私が馬鹿だったせいで、あなたを死なせてしまうかもしれない。 悔やんでも悔やみきれない。恐怖で体が震え、涙で息ができなくなるほど泣きじゃくった。 どれくらい、そうしていただろう。 嵐の音だけが響く部屋で、涙も枯れ果て、ただ床の冷たさだけが肌に沁みてくる。 指一本動かす気力もない。この
世界が、反転した。 征也の冷たい態度。『俺がやったことに、なっているのか』という、あの日の自嘲気味な呟き。『俺を人殺しだと思って生きろ』という、突き放すような言葉。 あれは全部、私を守るための嘘だったんだ。 私に真実を知らせて傷つけないために。私が信じていた幼馴染の裏切りを知って絶望しないように、自ら悪役を引き受けて、泥をかぶっていたんだ。(……なんてこと) 私は、何てことをしてしまったんだろう。 命がけで私を守ってくれた彼に、「人殺し」「汚い」「触らないで」と罵声を浴びせてしまった。一番傷ついている彼の心に、さらに深い傷を負わせてしまった。「……あ、あぁ……」 後悔と絶望で、胸が張り裂けそうになる。 征也。ごめんなさい。 あなたは、ずっと私を守ってくれていたのに。不器用で、言葉足らずで、でも誰よりも深く、私を愛してくれていたのに。「ようやく分かったかい? 莉子ちゃん」 蒼が、私の頬を伝う涙を冷たい指で拭った。「彼は君には相応しくないんだよ。……だって、君を守りきれなかった『敗北者』なんだから」「違う……!」 私は叫んだ。喉が裂けそうになっても構わなかった。「彼は負けてない! ……私が、愚かだっただけよ! 彼を信じてあげられなかった、私が弱かっただけ!」「まだ彼を庇うのかい?」 蒼の顔から、表情がすっと消える。 残ったのは、爬虫類のような冷たい嫉妬と、濁った殺意だけ。「いい加減に目を覚ましなさい。……彼はもう来ない。君は一生、僕の檻の中で暮らすんだ」「来るわ!」 私は言い返した。涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、彼を睨みつける。「彼は来る。……絶対に、私を迎えに来る!」「……根拠は?」「愛してるからよ!」
「……あなたが?」「そうさ。経営不振に見せかけた、計画的な倒産だ」 彼は私の乱れた髪を指で弄びながら、淡々と続けた。まるで、昨日の天気の話でもするように。「でもね、計算外のことが起きたんだ。……ハイエナが一匹、嗅ぎつけてきた」「……ハイエナ?」「天道征也だよ」 蒼の整った顔が、憎々しげに歪む。「あいつは、僕の計画に気づいたんだ。……当時まだ学生で、金も力もなかったくせに、必死になって君の家を守ろうとした」「え……?」「あいつは自分の全財産を投げ打って、さらに怪しげな筋から借金までして、月島の債権を買い集めたんだ。……僕たち銀行団に渡らないようにね」 心臓が、早鐘を打つ。 書斎の金庫にあった書類。『譲受人:天道征也』の日付。 あれは、会社を乗っ取るためじゃなかったの?「彼はね、君のお父さんに提案したんだ。『会社を立て直すまで、俺が債権を預かります。経営権はそのままにして、一緒に再建しましょう』って」 再建。 金庫の奥に残されていた、もう一冊のファイル。『月島ホールディングス再建計画書』。 あの時、私は怒りに任せて中身を見ようともしなかった。「……じゃあ、征也くんは……助けようとしてくれていたの?」「そうだよ。馬鹿な男だよね。……何の得にもならないのに、ただ君の笑顔を守りたい一心で、泥舟を支えようとしたんだ」 涙が、じわりと視界を滲ませた。 知らなかった。何も知らなかった。 彼があの頃、どんな思いで私の家の事情に関わっていたのか。私に向けられたあの冷たい言葉の裏に、どれほどの熱が隠されていたのか。「でも、無駄だった」 蒼が冷たく言い放つ。「僕が手を回して、再建計画を妨害したからね。……物流を止め、取引先を脅







